関西の路線
東海道本線・山陽本線(急行電車) (1934-1968)
京阪神間の緩行線は、電車の運転に伴い急行電車の運転を開始したものの、1942年に廃止されてしまいます。これを戦後の1949(昭和24)年に再開してからの流れを記載します。再開された急行電車には、当初は流電を整備して運行したものの、1950年からは80系の新車を投入し、その後、東海道本線の米原方面、山陽本線の姫路方面への電化進展に伴い、中距離電車として運行区間を延伸させます。1957年には呼称を快速電車に変えました。
路線
1949(昭和24)年 急行電車再開
1949(昭和24)年4月に京都〜大阪間で急行電車の運転が再開され、同年6月には神戸までの運行が再開されました。翌1950(昭和25)年9月にはマルーンとベージュのツートンカラーに塗られた80系が投入されます。
1956(昭和31)年 米原電化 1958(昭和33)年 姫路電化
1956(昭和31)年11月に米原〜京都間が電化され、東京、名古屋方面からの東海道本線の全線電化が完成します。これに伴い、80系の急行電車が米原まで延長されました。翌1957年10月には名古屋〜大阪間に80系による準急「比叡」の運行が開始されます。これを控えた同年9月に、電車区間を走る料金不要の急行電車は「快速」に改称されました。
また、これまで各駅停車が外側線、急行電車が内側線でしたが、外側線が列車線(本社管轄)、内側線が電車線(大阪鉄道管理局管轄)に改められました。
1958(昭和33)年4月には山陽本線側が姫路まで電化され、快速電車の運行区間も延長されました。
1964年に113系が投入され、80系に運行は1972年に終了しています。(高槻電車区の80系配置は1968年に終了)
車両
流電モハ52
画像:大阪鉄道局発行絵葉書(1937年頃)
戦前の急行電車には、当初は普通電車と同じ42系が用いられましたが、1936年に当時流行していた流線形のモハ52を先頭にした通称“流電”が投入されます。1937年の増備車からはツートンカラーに塗り分けられ、関西省電の存在感を見せつけました。
現在、吹田工場とリニア・鉄道館で復元保存されている車両は、この当時の姿を再現しています。
80系 急行電車
画像:所蔵写真
終戦後に急行電車を再開させる際、一旦は流電が再整備されますが、1950年には80系が新製投入されます。戦前の流電を踏襲したクリームとマルーンのツートンカラーを採用し、前面にはヘッドマークを掲げています。
1956年の米原電化に伴い、東京・名古屋側からの湘南色の80系と同じ湘南色に塗り替えられました。
1964年から113系が新製投入され、80系は1968年までにこの区間での運行は終了しました。
(新性能化後)153系「新快速」
画像:所蔵写真(大阪駅)
「急行電車」の直系は快速電車ですが、1972年に急行形の153系を使用して運行を開始した「新快速」が、その俊足ぶりから「急行電車」のDNAを受け継いでいると言えるでしょう。当初は大阪と三ノ宮、明石のみの停車で、新大阪にも神戸にも停車しませんでした。
(新性能化後)117系「新快速」
撮影:吹田−岸辺(1980.8.3)
1980年に「新快速」には新製車の117系が登場します。117系は2扉転換クロスシートと競合私鉄に匹敵する車に設備を持ち、伝統あるマルーンとクリームのツートンカラーを復活させました。
前面スタイルも、その時期の国鉄には見られなかった独自の造形で、流電の再来を意識したようにも見えました。
主な参考文献
- B5901 新出茂雄ほか(1959)「国鉄電車発達史」電気車研究会