はじめに
このWebサイト「“ゲタ電”の頃」を開設したきっかけ、経緯などについて、説明します。
最初に撮った写真
撮影:八王子駅(1977.3.28)
私が自分のカメラで最初に撮ったフィルムの1コマ目に写っていたのは、八王子駅の隅にあった貨物ホームに停車していた有蓋車でした。ただの有蓋車ではなく、ワラ1形の4444号。ゾロ目の番号です。
小学生の時に友人の影響で貨車に興味を持ち、そのままこのカメラでしばらくの間、貨車を撮り続けました。
旧型国電を撮り始めた中学生の頃
私が自分のカメラを持ったのは1977(昭和52)年のこと。まだ中学1年生だったので、小学生時代に興味を持っていた電車やバスや貨車とかを、あまり考えずに撮っていました。
半年ほど経って夏が終わるころ、「俺は旧型国電を追うんだ」という何やら決意のようなものが芽生え始め、バスを撮るのも貨車を撮るのもやめ、まだ身近に走っていた旧型国電に焦点を合わせました。
年が明けた1978年は旧型国電にとって試練の時期の始まりでした。首都圏では青梅線と南武線から相次いで引退し、それまで地方では主力として活躍していたはずの70系や80系などの戦後型国電が次々と姿を消してゆきました。極め付きは飯田線の流電がなくなるという大事件で、趣味誌が競って飯田線の特集記事を載せ始めました。何が廃車になって、何が生き残るか、などの記事を見て、「まだ撮ってない」「もう撮ったから安心」など一喜一憂したものです。
南武線サヨナラ運転
撮影:谷保駅(1978.7.31)
南武線72系の「サヨナラ運転」です。記念ヘッドマークに書かれた「新しい仲間とかわります」というフレーズは、しばらくの間、首都圏各地のサヨナラ運転で使われました。
サヨナラ運転を撮ることに殊更意味があるわけではありませんが、それまで付き合いのあった路線だけに、感慨はひとしおでした。
戦前型の最後を見送る高校時代
流電がなくなっても飯田線は旧型国電の晴れ舞台でした。それよりちょっと地味な身延線も、北アルプスを背に走る大糸線も、首都圏からの夜行列車を使って訪問するには適した場所でした。
高校生になる頃には、お金を貯めていよいよ中国地方に足を延ばします。関西の電車区で事業用電車を眺め、福塩線、可部線、宇部・小野田線の順番に訪ねてゆきます。この時すでに、山陽本線の80系や呉線の70系は引退済みでした。花形の戦後型よりも地味な戦前型が残されているという状況でした。
さらに「国電らしきもの」の存在にも気づき、伊豆箱根鉄道や弘南鉄道、そして都会の足元にある西武多摩湖線や東武鉄道などにも足を運びました。
それらも刻一刻と引退が迫りくる状況下で、「なくなるものを追い続ける」ことからは抜け出せませんでした。
カラーフィルムで撮った宇部線
撮影:阿知須−岩倉(1980.4.2)
当時としてはかなり奮発して、カラーフィルムでの撮影もしてみた中国地方への旅行。
まずは白黒フィルムで形式写真を押えて、気持ちに余裕が出来てから走行写真を撮り始めます。走行写真の撮影には、とにかくよく歩きました。今の健康があるのは、当時よく歩いたからかもしれません。
幼いころから親しんでいた電車たち
「もう1年早くカメラを持っていれば、中央東線の70系が撮れたのに」
誰もがそんなことを思います。
今から思えば、1977年時点でも、東海道線静岡地区の80系とか、両毛線の70系とか、千葉ローカルの72系とか、行こうと思えば撮りに行けたはずです。考え出せばキリがありません。
カメラがなくても、子供のころから見たり乗ったりした電車はたくさんありました。家族旅行でよく乗った中央東線の70系は、ロングシートの72系が来ないことを祈りながら乗車口に並んでいました。不思議とちゃんとクロスシートに座れた記憶しかありません。
国鉄から乗り換えた富士急行のクロスシートが狭いと家族が不平を言っていましたが、今から思えばその電車も元国電(クモハ14)でした。
おばあちゃんの家に行くのによく乗った小田急線では、スマートな小田急スタイルの中で、ちょっと違う切妻の電車を見かけました。幼稚園児の私はその電車が面白いと騒いでいたので、「電車の話はいいから幼稚園の話をしなさい」と怒られました。今から思えば、その電車は国電モハ63形をベースとした1800系でした。
高尾駅の電留線で待機する山スカ115系
撮影:高尾駅(1977.8.15)
1年ちょっと前までは70系が並んでいた電留線には115系。「70系がなくても115系を撮ればいい」と旧型国電へのこだわりが薄かった頃に撮った写真です。
それでも子供のころから親しんだスカ色の電車は、その後も長く追い続けました。
世代の違う方々から見れば、115系の全盛期を知っているだけで、羨ましがられるのかも知れません。
違いを見分ける面白さ
そんな旧型国電の面白さにハマった一つの原因は、「同じような車両なのによく見ると違う」箇所がたくさんあることです。
クモハ73の近代化改造車は、方向幕の有無だけでなく、ここもあそこも違う。
戦前型電車は車両によって窓が木枠だったりHゴムだったり、そしてその位置も違う。
じゃあ銘板を調べてみよう。
幡生工場ってどこだ? 郡山工場で国電を改造してた? 同じ大井工場なのにどうしてこんな違う改造するんだ?
豊川工場では更新修繕の時に既にHゴムを使っていたんじゃないだろうか。
吹田工場はどの段階からHゴムを使い始めたんだろう?
色々な疑問が湧いてきて、それについて、色々な仮説を考え、それを検証してゆく楽しさを覚えました。
それがイコール、旧型国電を楽しむことにつながり、現物が姿を消してからも、探求心を失わない原動力となったのです。
御殿場線のスカ色72系
撮影:谷峨−駿河小山(1978.8.23)
元々は東海道本線の難所だった山間部を行く御殿場線の72系。
今ほどリアルタイムの情報が流通していない時代だったので、行った先で初めて見る車両に驚いたりもしたものです。近代化改造車なのにウィンドシル・ヘッダーのついたクモハ73359という電車に出会ったのがこの日でした。谷峨駅の駅員に「この電車いつからいるんですか!」と尋ね「ずっといるよ」と半笑いで返されました。
事業者も寛容だった時代
何かが今と違っていたわけではありません。悪い奴らはたくさんいて、撮影場所でフェンスを引きちぎったり、電車のサボを勝手に入れ替えたり、他の撮影者に「どけー」と叫んだり、そういうことはどこでも起きていました。
それでも今より寛容な時代でした。
形式写真を撮ったり、銘板を調べたりするために、電車区に入れてもらうことが旅行の際の定番でした。営業所の事務室で、台帳に氏名や住所を記入し、ヘルメットをかぶり、係員の方の立会いの下(これはない場合もあり)、営業所内での撮影が許可されたのです。
初めて飯田線を訪問した時、伊那松島機関区の外で撮っていたら、「中で撮りなよ」と声をかけていただいたことがきっかけで、このことを知りました。
身延線の富士電車区では、職員の帰りのタクシーに富士駅まで便乗させてくれたこともありました。沼津機関区では「車両履歴書」というのを見せていただき、自分のノートに汗だくになって書き写しました。網干電車区では元買収国電の救援車に必死でシャッターを押す私に「新しい電車は撮らなくていいの?」と不思議がられました。
伊那松島機関区にて
撮影:伊那松島機関区(1977.8.16)
初めて旧型国電を見るために遠出をした飯田線北部への旅行。伊那松島機関区の職員さんに区内を案内してもらえました。
戦後に横須賀線を走った時とさほど変わらない原形に近いスタイルのクモハ43がいたけれど、この程度の写真しか撮りませんでした。まだ形式写真をきちんと撮ろうという意識も技術もなかったのでしょう。
同じ時代にいた人がたくさんいた
夏休みとかに旅行していると、不思議と同じ行程で旅行している人と出会います。周遊券を使って、夜行列車で夜を明かし、場合によっては「駅寝」をし、「昨日も会いましたね」と笑顔で挨拶をするのです。
「明日は可部線に行きます」「私はそのまま大阪に向かいます」そんな挨拶をして、発車する夜行列車から手を振る。全く知らない人で、それ以降会うこともありません。携帯電話もLINEもない時代です。
国分寺駅のイベントで会った大人の人と鶴見線のさよなら運転でも会いました。「この前会いました。こんにちは」と挨拶したら、「よく会うね」と返してくれました。多分向こうは覚えていなかったでしょう。
もしかすると、そんな旅先で出会った人が、名の知れたライターや写真家の一人だったかもしれません。今では本を出したり、Webサイトで記事を書いている人もいるかもしれません。あの時代に旧型国電を追いかけていた人は、たくさんいたのですから。
大糸線も終焉を迎える
撮影:信濃森上−白馬大池(1981.7.16)
1981年には身延線と大糸線で同時進行で旧型国電の廃止が進みます。あっちにもこっちにも行きながら、小田急1800系のお別れ運転にも、富士急行や伊豆箱根鉄道の元国電にも足を運ぶ忙しさでした。
時代がだいぶ進んだけれど
そんなことをしていた少年時代から、既に半世紀近くが過ぎようとしています。
鉄道趣味というのは、かなり深いところまで入り込んでいる人がたくさんいます。また文献等でも埋もれていた研究成果が発表されたりして、当時分からなかったことがかなり解明されてきています。
かつて私が調べたり記録していたりしたことは、それらのほんのひとかけらに過ぎません。今更こんな写真を載せたり、こんなことを書いたりしても、新しい発見はもうないし、無駄なことかもしれない・・・。
そう思いながら、貯め続けた資料をそのまま放置してきました。
それでもいいけれど、そうでなくてもいいな。自分が持っているものをどうしようが自分の勝手だしな。そう思って、自分なりに「分かっていること」を記録として体系的に残しておこう。それがこのWebサイトの趣旨です。
えちごトキめき鉄道の復刻電車
撮影:上越妙高駅(2023.8.11)
撮影:上越妙高駅(2025.6.30)
分かっている人はいるもので、2020年代になってこんな復刻カラーの電車が登場しました。
色だけではなくて、ウィンドシル・ヘッダー、木製扉、プレスドア、荷物扉など細部に旧型国電のテイストを再現しています。
当時の実物を見られなかった新潟色がクハ68の塗り分けで目の前に走っています。
幼いころから青春時代を経て、常に身近な存在だったスカ色がまだまだ私の人生の沿線で見ることができます。こんな幸せなことはありません。
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