にっぽん奇行


もし「紀行文を書いてよ」と頼まれたら、どんな紀行文を書けばいいんだろうか。実際に頼まれたわけではないのだけれど、ちょっと心配になってしまったので試しに書いてみました。

(第5回)広島は怖いとこじゃけん

広島は、山口県方面からきて、ちょっと寄った程度だった。駅前をうろうろして、あとはやることがないので、新幹線に乗って帰るだけだった。
駅に向かって歩道を歩いていると、斜め前を、結婚式の帰りのような若者数人が、二次会の場所を探している感じで歩いていた。その中で、ひときわ背の高い、ひょろりとした男が、不意に振り向きざま地面に唾を吐きかけた。私は少し距離を開けて歩いていたので、それは簡単によけることができた。わざとじゃないんだからしょうがない。
にっぽん奇行 その先の歩行者信号が赤なので、彼らはそこで立ち止まり、私も少し距離を開けたまま立ち止まった。
その直後、さっきののっぽが、こちらを斜めに振り返りながら、ちょっと近づいてくる感じで唾を吐いた。不意打ちではあったが、寸分の差でよけることができた。
普段の私なら、そんな酒に酔った人間の仕草は気に掛けず、何もなかった振りで歩き去っていたと思う。
だが、何かイライラが募っている時期だった。抑えきれない憤りが噴出し、反射的にそいつの胸ぐらを掴んでいた。そいつは、ヘラヘラ笑いの表情のまま、私を見下ろしていた。次にどういう行動に移ればいいのか、そいつの胸ぐらを掴んだまま、一瞬考えた。
空気の変化に気づいたそいつの連れの一人が、「何があったんですか」と近づいてきた。
「こいつが俺に唾を吐いたんだ」
私がそう言うと、彼はのっぽに対し、「何やってんだ、謝れ」と注意し、私には「済みません」と頭を下げた。
連れが常識人でよかった。私は手を離すと、ちょうど青に変わった歩行者信号を渡り、あとは一切振り返らずに広島駅に向かって行った。
一瞬の激昂で相手の胸ぐらなどを掴んでしまったが、次の行動は考えていなかった。もちろん、こちらからそれ以上の手を出す気はない。しかし、相手がどう出るかは皆目わからない状態だった。
もし、相手が強かったら、或いは仲間たちもイカレていたら、こっちは簡単にフルボッコの目に遭っていたかもしれない。または、もし相手が賢かったら、最初に手を出したのはそっちだと主張され、不利な立場に立たされていたかもしれない。
それで警察官が駆けつけてきたりして、取り調べを受けたりしたら、今日中に帰れなくなってしまったろう。明日は普通の出勤日なのに。
にっぽん奇行 もしそうなったら、明日の朝、上司に電話をしなければならない。
「今広島にいるんですが、昨日地元の若いもんといざこざを起こしまして、今日出勤できないんです」
そう正直に言えば、上司は笑って納得してくれるだろうか。
そんなことを思いながら、山陽新幹線の座席に身をうずめた。広島といえば、「仁義なき戦い」の原産地。甘い覚悟で喧嘩なんかしてはいけない場所なのだ。
(画像はほぼイメージで、本文とは関係ないものがほとんどです)

(つづく)


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80s岩手県のバス“その頃”